ゼロ戦 零式艦上戦闘機 展示  予科練平和記念館 茨城県 2023

ゼロ戦の実物大の模型があるのは珍しいですね。
プラモデル好きにはたまらないお宝ですね〜

 

3,000 kmの長大な航続距離、対爆撃機用の20ミリ機銃2門の重武装、格闘戦を重視した優れた運動性能、そして空力的洗練と軽量化を徹底追求した機体設計は1000馬力級の「栄」エンジンの性能を極限まで引き出し、一躍世界の戦闘機の頂点に立った。

ゼロ戦 零式艦上戦闘機

第二次世界大戦期における日本海軍の艦上戦闘機。略称は零戦(ぜろせん、れいせん)。試作名称は十二試艦上戦闘機。(略称は十二試艦戦)。
ゼロの由来は、機体の運用開始の1940年が皇紀2600年※1にあたり、最後の一桁のゼロから。

名称は「零式○号艦上戦闘機○型」とされ最初の桁が機体の改修回数、次の桁が発動機の換装回数を示す。
連合軍が零戦に付けたコードネームはZeke(ジーク)だが、パイロットからは直訳調のZero Fighter(ゼロファイター)やZero(ゼロ)と呼ばれた。

開発元は三菱重工業。
三菱に加え中島飛行機でもライセンス生産。
総生産数の6割以上は中島製である。
生産数は日本の戦闘機では最多の1万機以上。

零戦は、速力、上昇力、航続力の各数値を優れたものとするために、軽量化を徹底している。同時期の艦上戦闘機であるF4Fワイルドキャットが構造で機体強度を確保していたのに対し、零戦はより強度の高い素材を使用して部材の肉を抜き重量を削減した。軽量化は骨格にとどまらず、ボルトやねじなどに至るまで徹底したという。

零戦は約2200キロの航続距離をもっていた(当時連合軍の戦闘機がロンドンとベルリン間(片道約900キロ)を飛行し空戦を実施して帰還することは困難であった)
海軍は真珠湾奇襲攻撃の1941年(昭和16年)12月8日から、1942年(昭和17年)3月までのジャワ作戦終了までに、合計565機の連合軍機を空中戦で撃墜ないしは地上で破壊した。この数のうち零戦の戦果は471機、83%を占める。

台湾から出撃する陸攻隊を掩護しフィリピンを攻撃するという当時の単座戦闘機としては例の無い長距離作戦を成功させ、植民地フィリピン駐留のアメリカ陸軍航空隊を制圧した。

オーストラリアのポートダーウィン侵攻時の空戦での零戦の損失2スピットファイアの損失は17、被撃墜比率2対17。

アメリカ戦略空軍司令部作戦部長補佐代理ジョン・N・ユーバンク准将は「ニューギニアやラバウルで我々が遭遇した日本軍は、本当に熟練した操縦士だった。我々は最優秀の敵と戦っているのだということを一時も疑ったことはなかった」と回想している。

日本軍の一大航空拠点となったラバウル
1944年1月17日のラバウルでの迎撃戦では、合計117機のアメリカ軍戦爆連合を零戦79機で迎撃し、69機の撃墜を報告しながら全機無事に帰還している。
エースパイロット岩本徹三は、自身の撃墜記録202機のうち142機をラバウルで撃墜したとされ「零戦虎徹」と呼ばれた。
ラバウルでは他にも、西沢広義、杉田庄一、坂井三郎、奥村武雄など、零戦による多くのエースパイロットが誕生した。

ゼロ戦

Mitsubishi A6M “Zero” は、以前は三菱重工業の一部である Mitsubishi Aircraft Company によって製造された長距離艦載戦闘機であり、1940 年から 1945 年まで大日本帝国海軍によって運用されていました。

A6M は Mitsubishi として指定されました海軍の零式艦上戦闘機 (零式艦上戦闘機、rei-shiki-kanjō-sentōki)、または三菱 A6M Rei-sen。 A6M は通常、パイロットによって零戦 (れいせん ぜろせん) と呼ばれていました。

「0」は、帝国海軍に就役した 皇紀2600 年 ※1(1940 年) の最後の数字です。正式な連合軍の報告名は「Zeke」でしたが、「Zero」(Type 0 から) という名前も口語的に使用されました。

ゼロは、第二次世界大戦の初期に導入されたとき、世界で最も有能な艦上戦闘機であると考えられており、優れた機動性と非常に長い射程を兼ね備えています。大日本帝国海軍航空隊 (IJNAS) も陸上戦闘機として頻繁に使用しました。

初期の戦闘作戦では、ゼロはドッグファイターとしての評判を得て 、12 対 1 という優れた戦闘力を達成しました が、1942 年半ばまでに、新しい戦術とより優れた装備の導入の組み合わせにより、連合軍のパイロットは一般的に対等な条件でゼロと交戦するようになりました 。

1943 年までにゼロは、設計上の制限により、新しい連合軍の戦闘機に対してあまり効果的ではありませんでした。

エルロンとラダーの油圧ブーストがなく、高速での操縦が非常に困難でした。

1944 年までに、連合軍の戦闘機は A6M レベルの機動性に近づき、その火力、装甲、速度を常に超えていたため、A6M は戦闘機としては時代遅れになっていました。

しかし、設計や製造上の問題により、新型の航空機の開発が遅れたため、ゼロは太平洋戦争が終わるまで最前線での役割を果たし続けました。

最終段階では、神風特攻隊での使用にも適応された。日本は戦争中、他のどのモデルの戦闘機よりも多くの零戦を生産しました。

 

展示場所
予科練平和記念館
〒300-0302 茨城県稲敷郡阿見町廻戸5−1

※1

皇紀 ( こうき ) 」は、 神武 ( じんむ ) 天皇即位の年を元年と定めた日本の紀元で、皇紀元年は、西暦を660年遡る西暦紀元前660年(660 BC)にあたります。

https://youtube.com/shorts/WOEOvP2tybA?feature=share

 

予科練 ゼロ戦

 

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