Tartaria タルタリア 発電 韃靼 ダッタン人 19世紀のハイテク国家 歴史から消された文明

tartaria

おもしろい動画を見つけました。

まずはこちら、1900年代の初めにすでにLEDのようなイルミネーションがきらきら。
動く歩道があったり。

途中、こんなシーンがありました。

tartaria

そこには、HYDRO-ELECTRICという文字がある。

水に関するエネルギーとか水素エネルギーのことかな。

そういや、だいぶ前に米軍が水からエネルギーを取り出して戦艦を動かしたとかニュースがあったな。

米海軍の「海水燃料」がもたらす大変革

米海軍の科学者たちは数十年の歳月を経て、ついに世界で最も難解な挑戦の1つを解決したかもしれない。それは、海水を燃料に変えることだ。

液化炭化水素燃料の開発によって米軍は、将来の石油燃料への依存を軽減する可能性を持ち、「大変革をもたらすもの」として歓迎されている。そうなれば、軍艦は自ら燃料を作りだし、海上で燃料補給する必要がなくなり、常に100%の状態で任務に当たることが可能になる。

米海軍研究試験所によれば、新しい燃料は当初、1ガロン(約3.8リットル)当たり3〜6ドルほどのコストがかかると見られている。同試験所はすでに模型飛行機の飛行実験を済ませている。

海軍が所有する288の艦船は、核燃料で推進するいくつかの航空母艦と72の潜水艦を除き石油に頼っている。この石油依存を解消できれば、石油不足や価格の変動から軍は解放される。

「非常に画期的だ」と、海軍中将のフィリップ・カロムは言う。「われわれはかなり難しい時期におり、エネルギーを生み出す新たな方法と、いかにエネルギーを評価し消費するかに関する方法の革新に迫られている。安価な石油を無制限に消費できた過去60年のようにはいかない」

「初めて、海水から二酸化炭素と水素を同時に取りだす技術を開発することができた。これは大きな進歩だ」と、10年近くこの計画に携わっている化学研究者のへザー・ウィラウアー博士は言う。「私たちはそれが可能であることを証明した。あとは効率性を改善することだ」2014年4月9日(水)16時07分

いまから8年も前にすでに米軍は技術的に確立しているから、いまごろしれっと笑ってるんだろな。

となるとトヨタが推進する水素エンジンはとても魅力的。水があれば走るんだから。

いま、世界のクルマはEVにシフトしようとしているが失敗するだろ。なんせ30分の充電で80kmぐらいしか走らないのだから、東京から青森にいくのに10回ぐらい充電しないとダメだ。30分が10回で5時間。目的地につくのに5時間もよけいにかかる。充電している5時間はなにをして過ごすんだ。人生の無駄遣い。家族がいたら家族までも巻き添えだ。

しかも、充電スタンドに待ち行列ができてたら結果はさらに悲惨なことになる。仮に先客が一人いるとして最大30分は待たされる。そして、自分で30分。合計で1時間が無駄になる。10回で10時間が無駄になる。

これでは旅の計画など立てようがないだろう。ホテルに着く時間は大幅に遅れるだろうしキャンセルになるだろう。

また充電スタンドがすべてのSAにあるとはかぎらない。充電スタンドを探しているうちに高速道路の途中で止まる可能性もある。

充電スタンドをたくさん作ればいいというのは逆にCO2の増大になるだろう。EVはCO2削減にはならないよ。作るにしても相当な時間と金がかかるだろう。

それに雪国でもEVは普及しないだろう。雪国では大雪や吹雪での大渋滞が当たり前。バッテリーの電気だけのEVで何時間の渋滞に耐えられるのか。そして渋滞を抜けたあとは充電スタンドでの大渋滞が待っている。考えただけでも乗りたくないだろう。

トヨタの水素エンジンの逆襲が始まる。

水からエネルギーを得られるのだから雪は水だからエネルギーとして使える。水素エンジンは雪国でもwelcomeだろう。

おっと横道にそれた。

Tartariaを調べてみた。

英語版のwikipediaでは、Tartaryとなっている。ラテン語では、Tartariaとのことだ。

タルタリア(ラテン語:Tartaria、フランス語:Tartarie、ドイツ語:Tartarei、ロシア語:Тартария、ローマ字:Tartariya)またはTatary(ロシア語:Татария、ローマ字:Tatariya)は、アジアの大部分で西ヨーロッパの文学と地図作成で使用される包括的な用語、カスピ海、ウラル山脈、太平洋、そして中国、インド、ペルシャの北の国境に囲まれていました。当時、この地域はヨーロッパの地理学者にはほとんど知られていませんでした。地名(地名)の積極的な使用は、13世紀から19世紀までさかのぼることができます。ヨーロッパの情報源では、タルタリアは中央アジアの最も一般的な名前になり、この地域の実際の政体や民族グループとは関係がありませんでした。 19世紀まで、この地域に関するヨーロッパの知識は非常に乏しく、断片的なままでした。現代の英語を話す伝統では、以前はタルタリアとして知られていた地域は、通常、内ユーラシアまたは中央ユーラシアと呼ばれています。この地域の多くは乾燥した平原で構成されており、その主な人口は過去に畜産に従事していました。[1]

 

tartaria

wikiの地図では、黄色が独立したタータリアで、紫はチャイニーズ・タータリアと書かれてある。日本まで含まれてるぞ。1806年の地図らしい。

 

送電線がいつごろからあったのか

https://densenkan.com/know/densen1.html

より抜粋します。

電気の語源

1600年、エリザベス王朝の侍医で、物理学者として著名なウィリアム・ギルバートが、琥珀のことをギリシャ語でエレクトロンと呼ばれるところから、琥珀に生じた軽い物体を吸引する力を“Electrica”と命名しました。これが電気の語源となっています。ギルバートはまた磁気と電気に関する多くの基本的考え方を、“De Magnete”という著書の中で科学的に記述し、現代の電気産業発展の口火を切る功績を残しました。

最初の電気伝送

ギルバートが電気という言葉を用いてから100年後、オット・ゲーリックが感応発電機を作りました。1744年、ライプチヒのJ.H.ウインクラーがこれを改良して放電火花を遠距離に送ることに成功しました。彼はこの実験を通してその速度が弾丸よりも早いと言い、絶縁された導体を用いると世界の果てまでも送ることができるであろうと述べています。この研究は電線・ケーブル発達史の出発点として高く評価されています。

 

電流の発見

イタリアのコム市中学校の物理学教師アレキサンドル・ボルタは、1800年ボルタ電堆(電池)を発明しています。彼は銅と亜鉛の板を、湿った布を挟んで積み重ねるとその両端から電気を発生し、これを電線で継ぐと、その中に電気の流れが生ずることを発見しました。これは電気学上、非常に大切な発見であり、電気の利用はここからはじまったといえます。これから電流に関するいろいろな実験が行われ、電流はやがて電信に応用されることになりました。

発電機と変圧器の考察

1831年、ミカエル・ファラデーは磁界の中で電線を動かすと電線の中に電圧が起り、電流が流れるようになることを発見しています。この発見は電気工学の基礎をつくったもので、この原理によって発電機が工夫されました。このときまでは、電池による小さな電力しか得られなかったのですが、それ以降大規模な電力の発生が可能となりました。また、ファラデーは、一本の導体を通る電流は隣接する他の導体に電流を誘発できないかどうかについて研究した結果、直径6インチの鉄輪の周囲に5重の銅線コイルを、うち3重は輪の内側に、2重は外側に巻つけることによって、これに成功しました。これらコイルの一端はボルタ電池に、他の一端は電流計に接続され、電池から電流が流れ出した瞬間、他端の電流計に一時的に電流が流れました。これが有名な誘導コイルで、現在イギリスの王立科学研究所の貴重な宝物的存在となっている世界最初の変圧器です。

電信機の発明とわが国への渡来

米国人モールスが通信機を発明したのは、1837年のことですが、この電信機が米国東インド艦隊司令長官ペリーによって、1854年(安政元年)江戸幕府将軍家に献上されています。ペリーの電信機に関する目録の中には、電信機2座、電信線4把、ガタパーチャ線1箱、碍子などが記載されています。この年にはオランダからも電信機が献上されています。こうした中でわが国においても電信機に関する関心が高まったのですが、わが国最初の電信機は1849年(嘉永2年)佐久間象山によってつくられ、この時使用した絹巻線も彼自身が作ったものといわれています。

銅線製造の最初

銅線は太古においては、銅を打ってまず板をつくり、次にこれを帯に切ってから叩いて丸くしたものであって、鋼棒からつくるようになったのは14世紀ころからはじまったといわれています。わが国でダイスによる銅線製造は、水車引きによってはじめられ、京都の白川村、関東では埼玉県の膝折(現在の朝霞市)が最も古いといわれていますが、起源は詳らかではありません。年代のはっきりしたところで、1832年(天保3年)大阪で平川製線(現在の理研電線株式会社)の先祖が銅線をつくっており、1854年(安政元年)に京都で津田電線の津田幸兵衛氏が水車を利用して銅線を引きはじめています。明治初年頃の国産電信機に細い絹巻線が支障なく使われていたのをみますと、その当時すでに細物銅線の製造技術は十分に確立されていたものと考えられます。

海底電信線の布設

1841年にモールスは、ゴム、麻及びタールピッチで被覆した電信用の海底電線を設計し、これを製作してニューヨーク港を横断して布設し、1842年に通信に成功しています。次いで、海底電線の布設において、大西洋を横断してガタパーチャ電信海底線を布設するというきわめて野心的な計画が現れています。 1858年に英国の大西洋電信会社によってアイルランドのパレンシャ港とニューファウンドランドのリニチ湊との間に布設が行われましたが、これは1863年に一旦不通となりました。このため1866年に大西洋電信会社が改組し、この結果できた英米電信会社の手により復旧完成をみております。わが国では1890年(明治23年)津軽海峡に逓信省所属の明治丸によって22海里の電信海底線が布設されていますが、これが日本人によってはじめて布設された海底線です。当時の逓信大臣は榎本武揚で、彼は海底線布設のような国家に必要なものを外国に任せていてはわが国の進歩は望めないとし、大いに督励したと言われています。

電話の発明

1875年に米国人アレキサンダー・グラハム・ベルは、電話を発明し、翌1876年に電話機を完成してボストンーケンブリッチ間3kmの通話に成功しています。次いで、1880年には80kmの架空線による通話に成功しました。この電話機がわが国に渡来したのは、1877年(明治10年)のことで、米国人の記録によりますと、電話機が商品として外国に輸出されたのは、これが最初とのことであり、わが国で工部省と工部大学校(東京大学工学部の前身)との間及び東京電信局と横浜電信局との間で試験が行われています。

電燈のはじまり

19世紀後半には、電燈の開発がめざましい勢いで進歩していますが、著名な先駆者はエジソンで、彼は1879年に中空のガラス製球形でみごとな電気ランプの製造に成功しました。1882年には、ロンドンで最初の商業展示会が催されています。わが国ではじめて電燈(アーク燈)が灯されたのは、1878年(明治11年)3月25日、工部大学校で、電信中央局の開設祝賀会が催されたときです。3月25日の電気記念日は、これを記念したものです。

電気事業の最初

1887年(明治20年)11月、東京電燈の第2電燈局(火力発電所)が麹町に竣工し、エジソン式直流発電機により直流3線式210Vで電燈供給が開始されましたが、これが架空電線による一般供給の最初であり、わが国電気事業の最初でもあります。ロンドン及びニューヨークで電気供給事業が開始されたのが1882年ですので、わが国はこれに遅れること5年ということです。

 

ということで19世紀に電線が広まったようです。

そういや、フリーエネルギー関連の動画も以前のYouTubeには、いっぱいあったんですけど消されてますね。

コロナ関係もいっぱい消されてるし

YouTubeもどこかに圧力かけられてるのかなあ。

 

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